2013年8月 のアーカイブ

明日のUXまるどりっ!

2013年8月30日 金曜日

「旅ちょ。」は私の地元、新潟市北区葛塚を歩いた様子を紹介します。
撮影日はどしゃ降りの雨でしたが、この日開かれていた「葛塚市」へ。
250年以上続く歴史がある。

250年ですよ、250年。
アメリカ合衆国よりも古い!!

ということで、
強引ですけど、地元の先輩から頂いた資料をここで紹介します。

題して「阿賀北・葛塚の物語」 ~反骨の歴史~

平安末期        奥州藤原氏
              源頼朝による藤原氏滅亡後、鎌倉幕府による支配下となる。

古代~中世      蒲原津(かんばらのつ)と呼ばれる。

南北朝時代      蒲原津城が築城される。(南朝方)越後争乱の中心となる。

鎌倉時代        揚北衆(あがきたしゅう)
              この地を治めてきた意識から独立性が強く、南北朝以降の
              守護上杉氏や守護代の長尾氏と対立後、上杉家臣に組み
              込まれる。

戦国時代        新潟と沼垂の港町が現れ上杉謙信の支配下で栄える。

              杉景勝と新発田重家が争奪した激戦地となる。

江戸時代初期     新潟島を中心とする西部は長岡藩領、沼垂中心の東部
               は新発田藩領。

享保16年(1731年) 松ヶ崎掘割決壊により福島潟の水位が下がる。
               その頃より、周辺の集落から次男三男などが葛塚方面へ
               流入し始める。

江戸時代中期     蜑の手振り (あまのてぶり)
              小足駄を打ち鳴らして四日四晩踊り明かす祭り。

明和5年(1768年)  新潟明和騒動。
               長岡藩の御用金徴収に対して蜂起し、約2ヶ月間町民に
               よる自治を行う。

文久2年(1863年)  遠藤七郎 葛塚市を開く。
               新発田藩に認められなかった「開市」を水原代官所が認める。

明治元年(1868年)  遠藤七郎 草莽隊(そうもうたい)を組織 → 北辰隊
                農民を組織し、新発田藩の米沢招請を阻止するために行動
               大夫浜に上陸した新政府軍を共に戊辰戦争を戦う。

大正11年(1922年)  木崎村農民組合連合会結成 → 木崎争議
               暴動やテロなどの暴力的な展開ではなく、小作料の減免
               要求と政治的な待遇改善、人権回復、無産農民学校の
               創設のような文化活動を展開。

秋季大祭は毎年町内ごとに灯篭を作り、激しくぶつかり合い、結局は壊れてしまう。
男達は一年間のエネルギーを発散する勇壮なお祭りとなっています。

葛塚の地に次男三男末っ子達が流入し「町」を形成。
おそらく、長兄には負けない!という思いで町の発展に尽くしたことでしょう。
パイオニア精神から、まずは町の発展を形に「市」は開かれた。
ところが、新発田藩から認てもらえない。
”若い町”ということから虐げられていたのでしょう。
現代でもあることです。
それから約100年の年月を経て、水原代官所から認められ「開市」となる。
反発されても諦めない精神。
新潟市との合併後も、この土地のDNAは「反骨」のまま生き続けています。

ジュエリー展示会にて~21日・22日~

2013年8月29日 木曜日

東京の㈱ナガホリさんより宝石の展示会でお仕事を頂きました。

会場はホテル日航新潟で、平日でしたがたくさんのお客様がご来場されてました。

いや~、不景気だ何だと言っているのは実は男性ばっかりかも。

女性は元気で輝いていますね。

信州は上田の旅

2013年8月27日 火曜日

初夏の頃、長野県上田市にある戦没者美術館「無言館」に初めて行きました。
そこにあった絵画は、およそ70年前の日本。
時を超え真っすぐに心に突き刺さる悔しくも切ない葛藤の思いが全身を包みました。

昨日、再びこの美術館に訪れました。
終戦を迎えた8月。
親交ある居食亭ほうせい丸の浅野さんと、新発田市の「ぐみの木」ママみどりさんと。
お二人は私の話に共感してくれて、初めての来館です。

館内の写真撮影が出来ませんので、中の様子は紹介できませんが、
お二人とも心の奥深く感じるものがあったようです。

二度目の来館の私は、前回よりもちょっと心の変化がありました。
胸が熱くなるのと、戦争への怒りと無念はありますが、
「愛」を感じられるようになっています。
その昔、日本が最も荒れていたと言われる時代を、あえて「平安」と称することで、
多くの憎しみや怨念を抑え込んだという日本人独特の精神が、
あれ?こんな私にも教わった訳でもないのに”あるんだ”と気がついた瞬間でした。

すると、外あるコンクリートの碑の裏側にひっそりと刻まれた言葉を見つけました。

こんなメッセージが。

これもまた私の心に深く刻まれました。

名もなき画学生が出兵する前に残した絵画。
知る人ぞ知る「無言館」
ほぼ70年前のその絵から私に語りかけるような何かがありました。
古来からある日本人の心、繊細で豊かなな表現、他を受け入れ共有する柔軟な思い。
これを感じながら、この先を見つめ生きてみようかなって思いましたね。

もう一か所、上田市にある上田城に足を運びました。
戦国武将真田幸村で有名なの城跡へ。

六文銭は三途の川の渡り賃。
いつでも命を捨てる覚悟で戦うという意味の六文銭の紋様。

これまた戦の時代。
大陸から稲作が導入された弥生時代から約二千年。
ずっと争いが続いていたわけで・・・切ないですなぁ。

越後は新発田市に帰って来たら、ちょうど新発田祭りが開催された日でした。
平和に感謝です。
食事をしながら三人でお国の事、戦争の事について語りました。
乾いた今の世の中で、せめて一年に一度くらいはこういう話が出来るといいなぁ。
話せる人が身近に少ないだけにね、そんな風に思いました。

忘れられない旅となりました。

美術

2013年8月26日 月曜日

なぞかけ。

トリックアート。

絵文字。

頭ん中、芸術のうんこだらけ。

来年は展覧会をする。

じゃないと便秘のままだから。


※イタズラ描きじゃが


※まるどり!と書いてあるんじゃ

死んで居る

2013年8月25日 日曜日

昨日の伯父のお通夜。
妻といち早く葬儀場に着きました。
遺族である従兄妹が悲しみをこらえ通夜の段取りの準備をしていました。
初めての葬儀で何をどうしたら良いのか分からないまま。
ま、だいたいそんなもんです。

しかも、我が一族はそれなりの癖者だらけでありまして、話がバラバラ。
したがって段取りが悪いと言っちゃ悪いのだが、今に始まったことではない。
ムキになった方がバカです。
もう故人の子ども達もいっぱしの大人なんで、それなりに順応すればいい。
こういう状況になると覚えるし、いい経験になる。

身内の葬儀ほど、不謹慎かと思いますが注目の場。
そもそも漫画家志望だった私にとっては、個性的なキャラクターが集まって、
それぞれ勝手な主張と、それぞれの癖をむき出しに行動をするから、
全体を見わたせば素晴らしい配役人がちゃんと設定できて、
物語に見えてしまうわけです。

そうじゃなくても、例えば寅さんの映画でいうと、
この人はタコ社長っぽい、この人は博みたい、そんなキャラクターの人っているからね。
そんな風に勝手に舞台設定してみると、難しい人間関係も面白く見えたりなんかします。
例えば、職場のみんなが真面目な人達ばっかりだと、
つまんない配役陣になっちゃって面白いドラマにならない。
変な奴が数人いて面白い展開になるんだから。
私は世の中をそんなアングルで見る癖があります。

まさに今生は漫画。
ドラマです。

話は脱線しましたが、私は長男でありますから、何れ喪主をしなければいけない。
3年ほど前から葬儀に参列する度に、どんな運びなのかちょいと教わって来ました。
どういう仕来りがあって、どういう段取りで、どういう事に注意するのか。
今年の初めに義理の姉の葬儀もあり、黙って段取りを見る体験ができ、
ほぼ80%覚えました。

今回、我が一族の段取りの悪さのお陰で、いち早く葬儀場に来た私と妻。
棺に眠る故人の顔を、誰もいない斎場でじっくり眺めることができました。
たくさんの思い出が巡ります。
葬儀の写真は何気ない笑顔の表情で、故人が生前選んでいたものだと知りました。
いつもの伯父の笑顔でした。

準備が整った祭壇と花壇。
妻と二人でいると、ふと斎場の雰囲気が気になった私。
人の気配がするんです。

私には感じました。
棺のそばに、先にあの世に行った爺さんと婆さんがいると。

80年の人生を終えた、ただ一人の息子のそばに、
爺さんと婆さんは、また親子で一緒にいられると喜んでいるのか、
それとも、ただ寄り添っているのか分かりませんが、居ました。
その事を妻に話しました。
見えないし感じない妻ですが、怪しむことなくうなずいてくれました。

うん、思うことがあります。
思い出のある人が亡くなっても、死んだのではなく、
死んで居るんですね。
居るんです。

今日は伯父の葬式と出棺です。
火葬場にて骨となります。
私が骨壷を持つ役目となりました。
これまた不謹慎かもしれませんが、
遺族として人生のバトンを預かるような気がします。

ほんと、不謹慎ですいません。