「旅ちょ。」は私の地元、新潟市北区葛塚を歩いた様子を紹介します。
撮影日はどしゃ降りの雨でしたが、この日開かれていた「葛塚市」へ。
250年以上続く歴史がある。
250年ですよ、250年。
アメリカ合衆国よりも古い!!
ということで、
強引ですけど、地元の先輩から頂いた資料をここで紹介します。
題して「阿賀北・葛塚の物語」 ~反骨の歴史~
平安末期 奥州藤原氏
源頼朝による藤原氏滅亡後、鎌倉幕府による支配下となる。
古代~中世 蒲原津(かんばらのつ)と呼ばれる。
南北朝時代 蒲原津城が築城される。(南朝方)越後争乱の中心となる。
鎌倉時代 揚北衆(あがきたしゅう)
この地を治めてきた意識から独立性が強く、南北朝以降の
守護上杉氏や守護代の長尾氏と対立後、上杉家臣に組み
込まれる。
戦国時代 新潟と沼垂の港町が現れ上杉謙信の支配下で栄える。
杉景勝と新発田重家が争奪した激戦地となる。
江戸時代初期 新潟島を中心とする西部は長岡藩領、沼垂中心の東部
は新発田藩領。
享保16年(1731年) 松ヶ崎掘割決壊により福島潟の水位が下がる。
その頃より、周辺の集落から次男三男などが葛塚方面へ
流入し始める。
江戸時代中期 蜑の手振り (あまのてぶり)
小足駄を打ち鳴らして四日四晩踊り明かす祭り。
明和5年(1768年) 新潟明和騒動。
長岡藩の御用金徴収に対して蜂起し、約2ヶ月間町民に
よる自治を行う。
文久2年(1863年) 遠藤七郎 葛塚市を開く。
新発田藩に認められなかった「開市」を水原代官所が認める。
明治元年(1868年) 遠藤七郎 草莽隊(そうもうたい)を組織 → 北辰隊
農民を組織し、新発田藩の米沢招請を阻止するために行動
大夫浜に上陸した新政府軍を共に戊辰戦争を戦う。
大正11年(1922年) 木崎村農民組合連合会結成 → 木崎争議
暴動やテロなどの暴力的な展開ではなく、小作料の減免
要求と政治的な待遇改善、人権回復、無産農民学校の
創設のような文化活動を展開。
秋季大祭は毎年町内ごとに灯篭を作り、激しくぶつかり合い、結局は壊れてしまう。
男達は一年間のエネルギーを発散する勇壮なお祭りとなっています。
葛塚の地に次男三男末っ子達が流入し「町」を形成。
おそらく、長兄には負けない!という思いで町の発展に尽くしたことでしょう。
パイオニア精神から、まずは町の発展を形に「市」は開かれた。
ところが、新発田藩から認てもらえない。
”若い町”ということから虐げられていたのでしょう。
現代でもあることです。
それから約100年の年月を経て、水原代官所から認められ「開市」となる。
反発されても諦めない精神。
新潟市との合併後も、この土地のDNAは「反骨」のまま生き続けています。